
相手に褒められるような部分があるかどうかなんてのとは全く無関係に、
まず自分自身に、いざとなれば人を褒賞できるだけの権能があること。
それがないのなら、自分の批判なんかにも全く価値がないことを、
人を批評しようとする側もまたわきまえておく必要がある。
「自分の言うことに聞き従えば、何か良いことがある」といった
善因楽果の条件を満たした言動を守ろうとする者だけが、それを可能ともする。
「熱湯で顔を洗ったり、剃刀で歯を磨いたりするのはやめといたほうがいいですよ」
などという教示に逆らえば、それはそれは痛ましい事態に陥ったりするように、
さような志操の持ち主の言うことに逆らえば、それだけで不幸に見舞われることとなる。
賞金や罰金みたいな後付けの賞罰以前に、まず発言そのものがさようであり得るし、
結局はそこにまで賞罰を合致させておくのでなければ、「剃刀で歯を磨けば賞金をやる」
みたいなマッチポンプのプラマイゼロとなって、十全な褒賞の権能者でもなくなってしまう。
だから、批評内容自体が善因楽果悪因苦果の罪福異熟に順当に合致しているというのが、
カルト的脅しでもなんでもない、人を批評する資格を持つ基本条件たるのでもある。
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