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「求道か、さもなくば頽廃か」という時代2 偉大なる生存の報告 Part328
▼ページ最下部
ネットやSNSの普及と共に、世界中の平均知能がより下がってしまったとは、
すでにノルウェーの研究機関などが通告している現象であるけれども。
知能に限らず、近年の人類の心技体全方面における頽廃化には目に余るものがある。
ネットの普及がさような悪影響を人類に及ぼした内情はといえば、
人々が生きて行く上での求道性が何もかも削がれてしまうほどにも、
何もかもが簡便に済ませられるようになったのがそれであろうと思われる。
元来、人間という生き物はただ生活して、働いて生計を立てて行くためにだけでも、
相応な求道性が必要とされていたために、そこを十分にこなしているだけでも、
人としての十分な成長を遂げた「大人」らしくなり得たのである。
しかし、今はもうそんな所にはなんらの求道性もなく、ただ生きて行くだけなら
子供も同然の未熟さのままでも何もかもが済ませられるようになった。
ネットという文明の利器をあえて破棄して昔に戻るわけでもないままに、
これからの人類が見るに大人らしくて、諸々の能力性にも満ちた状態で
あり続けるためには、ただ生きるのではなく、そこにあえて何らかの
求道性を持ち込んで行こうとする心がけを必ず伴わせるのでなければならない。
本格の仏道修行なり武芸なりの古来の取り組みに頼るのでも、その他の新規の手段に
頼るのでも、何らかの取り組みがなければならない。そしてまずはなんといっても、
「求道」という行為全般への、過去の遺物扱いからの脱却が先決ともなる。

すでにノルウェーの研究機関などが通告している現象であるけれども。
知能に限らず、近年の人類の心技体全方面における頽廃化には目に余るものがある。
ネットの普及がさような悪影響を人類に及ぼした内情はといえば、
人々が生きて行く上での求道性が何もかも削がれてしまうほどにも、
何もかもが簡便に済ませられるようになったのがそれであろうと思われる。
元来、人間という生き物はただ生活して、働いて生計を立てて行くためにだけでも、
相応な求道性が必要とされていたために、そこを十分にこなしているだけでも、
人としての十分な成長を遂げた「大人」らしくなり得たのである。
しかし、今はもうそんな所にはなんらの求道性もなく、ただ生きて行くだけなら
子供も同然の未熟さのままでも何もかもが済ませられるようになった。
ネットという文明の利器をあえて破棄して昔に戻るわけでもないままに、
これからの人類が見るに大人らしくて、諸々の能力性にも満ちた状態で
あり続けるためには、ただ生きるのではなく、そこにあえて何らかの
求道性を持ち込んで行こうとする心がけを必ず伴わせるのでなければならない。
本格の仏道修行なり武芸なりの古来の取り組みに頼るのでも、その他の新規の手段に
頼るのでも、何らかの取り組みがなければならない。そしてまずはなんといっても、
「求道」という行為全般への、過去の遺物扱いからの脱却が先決ともなる。

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超長期の引きこもりで、いい女とやりたい願望タラタラでいながらも、
そこからの暴発への衝動をグッと堪え続けてきた否定派がオナメン顔貌ではない一方、
キャンパスで強姦まがいや強姦そのものな女漁りを繰り返している慶応生などは、
高学歴扱いであるのにもかかわらずオナメン顔貌だらけだったりするように、
今の日本の教育やステータスなどが、人々の我慢弱さによるオナメン化を
助長していることこそあれど、少しだって抑える方向に与してきた試しもない。
無戒律の浄土門でいながら、カルトじみた布教をしていた息子を不孝者として義絶した
親鸞聖人などは、明らかにオナメン顔貌ではなかったらしい肖像画で描かれることが多い。
(本当にそうだったかはともかくとして、念仏者はこういう人相を目指すべきとされているのである)
やはりそちらのほうに、日本人にオナメン並みの心の弱さを許さぬ潮流の源流があったのである。
>>281
(>>253)を見て向きになり、今度は強気の姿を見せようと大張り切りでゴミレスを書き散
らした白痴馬鹿。得意の話題を振られれば得々と語りまくり、IQ160と言われれば真に受け
て「いやそれ程でも」と照れ笑い。餓鬼道の下に白痴道を作って収監してやろうか。念仏者
なみの心の求道?呪文を唱えれば死後の世界で救われる、それが念仏宗。よりによってカル
トの中のカルトじゃないか。オウムと全く同じじゃないか。
これもお前が言い出した話だ。お前の希望通り「理詰めの論及」をやろう。以下はあくまで
自分の意見だ。地蔵の意見は?異論は?反論は?それとも言われてみればその通りか?
>>203
南無阿弥陀仏を唱えれば、死後に阿弥陀仏に救われると言う絵空事が正にカルトそ
のものだが(法華の創価学会や壺商法と同断)、それは信仰の自由だから良いとして、
これまで延々と問い続けたのに、なぜ最初から念仏信者と言わなかった?呪文を唱え
れば阿弥陀仏という超能力者によって救われるという宗教が、どうして小乗仏教(釈
迦の教えを実践することによって、人間の苦悩の原因となる執着から解脱しようとい
う宗教)を批判できるんだ?どこに合理性がある?
>>205
何がいた?不滅の霊魂か?釈迦の教えの大原則である諸行無常(すべては移り変わる、
永遠の存在はない)を蔑ろにする、まさにカルト宗教だな。
(>>253)を見て向きになり、今度は強気の姿を見せようと大張り切りでゴミレスを書き散
らした白痴馬鹿。得意の話題を振られれば得々と語りまくり、IQ160と言われれば真に受け
て「いやそれ程でも」と照れ笑い。餓鬼道の下に白痴道を作って収監してやろうか。念仏者
なみの心の求道?呪文を唱えれば死後の世界で救われる、それが念仏宗。よりによってカル
トの中のカルトじゃないか。オウムと全く同じじゃないか。
これもお前が言い出した話だ。お前の希望通り「理詰めの論及」をやろう。以下はあくまで
自分の意見だ。地蔵の意見は?異論は?反論は?それとも言われてみればその通りか?
>>203
南無阿弥陀仏を唱えれば、死後に阿弥陀仏に救われると言う絵空事が正にカルトそ
のものだが(法華の創価学会や壺商法と同断)、それは信仰の自由だから良いとして、
これまで延々と問い続けたのに、なぜ最初から念仏信者と言わなかった?呪文を唱え
れば阿弥陀仏という超能力者によって救われるという宗教が、どうして小乗仏教(釈
迦の教えを実践することによって、人間の苦悩の原因となる執着から解脱しようとい
う宗教)を批判できるんだ?どこに合理性がある?
>>205
何がいた?不滅の霊魂か?釈迦の教えの大原則である諸行無常(すべては移り変わる、
永遠の存在はない)を蔑ろにする、まさにカルト宗教だな。

高尚すぎる教えばかりに帰依して問題を招くようなことはあってな。
たとえば、香川県っていうのは、四国八十八か所霊場の一部なうえに、
御大師様の故郷なこともあって、当然のことながら真言宗が非常に盛ん。
最澄のような朝廷推薦の高僧にも抜きんでて、唐への留学で最高の成果を挙げ、
日本史上最高の高僧となった御大師様に続けと、今でも最上級に学問が盛ん。
平均知能も全国でもトップクラスで、国民民主の玉木みたいな、
東大もハーバードも出るようなエリートも多数輩出してるんだが。
その裏手には、大変なスパルタ教育の内輪での蔓延などもあり、
子供のゲーム時間を制限する条例の制定などもその端緒となっている。

ドロップアウトして全身刺青のヤンキー化したり、自殺したりする子供も多発している。
(交通マナーの悪さが愛知すら抜いて全国一だったことがあったりする理由)
(以前に話してた、自殺した知り合いの子供の親も香川出身の国家公務員)
元より真言宗という宗派自体が、全宗派共通の戒律に、さらに独自の戒律を上乗せして
かかるほど厳しい宗派であり、高野山も本来は、今の東大のような全国最高学府であった。
そんなエリート養成のための宗派を、平民に至るまで総出で信仰したりすれば、
付いていけなくてドロップアウトしてしまうような人間も少なからず現れることになる。
東南アジアの上座部国なども同じように、難儀すぎる教えばかりに
総出で帰依しようとしてきたあまりに、多くのドロップアウトを招き、
挙句には日本の半グレのたまり場などにもなり果ててしまっているのである。

弄していたパワハラのような、エリート同士での切磋琢磨が
熾烈を極めるのは全く結構なことで、昔の密教寺や禅寺のように、
仮にそのせいで死傷者が出ようとも、時には自己責任扱いで済ませられるもの。
(今でも死んでもいい誓約と共に行われている千日回峰のように)
天下万民が、最低限の嗜みとしておくべきような求道などは、
全くそれとは違い、むしろ誰にでも無理なくできる範囲に特化せねばならない。
真言宗も念仏を併修しているだけでなく、昔からその他の他力本願型の
信仰形態まで整備しており、その範疇で粛粛と信仰しているような人もいるのだが、
やはり密教となれば、自力作善の求道も頑張ってみたい虫が湧きだすもので、
そういう傾向が御大師様の故郷でのスパルタ教育の蔓延などにも派生している。
すべての衆生のための求道たるや、他力本願の易行道でもいいどころではなく、
むしろそれ専門ですらなければならないとした、日本の浄土門のあり方こそは、
まさに正解そのものだったのであり、仏道がまずそのような、海抜ほぼ0メートルな
富士の起点のごとき平易さを帯びていることこそは、この国の奇跡とも言っていいのである。
下衆の争いw

なおかつその農家の仕事こそは、着実かつ絶対的に、
大いなる我慢を強いられるものであった。
商売やモノづくりはおろか、漁業あたりだって、
明治期のニシン漁や、今のクロマグロ漁やカニ漁のような
一攫千金の夢を見られる一方、手塩にかけた作物の育成に必ず何か月も
待たされて、しかもその上で凶作になるようなこともある農家の仕事は、
不可避に堪忍を強いられることにかけて右に出るものがない。
そんな仕事にいそしんでいた人々が、
さらに実践的な修行を強いられる余裕なんてちっともない。
むしろ仕事こそが修行の内であり、念仏はその荘厳であったもの。
それでもう心身両面における、人生の求道が十二分であった。
今の日本での仕事などは、機械化が進んでいる農業含め、
そこまで絶対的な堪忍を強いられるものでもなく、
むしろADHD系の人間が憂さ晴らしのためにやってたりする。
それ+念仏だけでは物足りないというのなら、
さらなる求道をももくろめばいいのには違いないが、
それが昔の農業なみの重作業であることに耐えられる現代人が、どれほどいようか?
念仏が易行だからといって、それこそがちょうどいい具合の
心の求道になっていたような人々までをも舐めてはいけないし、
そこを舐めないのなら、念仏も舐められるわけがないのである。

最低限以上の分別能力を養う機縁を授けてきた
信仰やその他の精神文化というのが、海外には全くと言っていいほど存在しない。
百姓農夫なんかには、まともに信教もその他の文化享受も許さないか、
さもなくば自主性を一切放棄して、上からの指示命令通りに黙って働くことこそを
正当化する「奴隷道徳」系の信仰などがあてがわれるのみだったのが、全世界の様相である。
日本における奴隷制の廃止と、念仏信仰の民衆に至るまでの流布というのが、
ほぼ機を一にしていて、そもそも世の中から名目上の奴隷が全廃されて、
古来より奴隷でなくとも奴隷装束を模してきた女や僧侶らにいたるまで、
その最たるものである耳輪を付けたりすることを完全にやめたのが、
日本という国が奴隷そのものだけでなく、「奴隷性」までをも排除し尽くす機縁となったもので、
それが庶民にも人間並みの分別能力を授けて行く素地になったというのもある。
ただ、だからといって、仕事だけでも大変な労苦を強いられている百姓なんかに、
なんらかのストイックな実践なんかをさらに強いる信仰文化なんかをあてがうのも
無理があるから、仏教の中でも最も実践性の低い念仏こそが特に広められることとなった。
それはまさに、他国では民衆への奴隷根性の強制だったものの代替なのであり、
そう考えればよほど上質で、少なからず求道的だったことまでもがよく分かるのだ。

あることが広く認められ、その素養が念仏信仰などと共に育まれていたからこそ、
江戸期には百姓が一揆を起こせば、その時点でその首謀者と領主は両成敗という、
同時代の他国ではあり得ないような、対称的な封建統治が実現されてもいた。
まるでフランス革命こそが、民衆の自主性が認められた世界初の事例であるかのように、
洋学ベースの歴史では教えられているが、そんなものよりもずっと前から、
日本では民衆の自主性がその精神面から承認、蓄積されていた。
フランス革命以降に民主化が進んだ欧米諸国でも、それがあくまで外的な制度面の
改革などにばかり終始して来たために、人々の精神面からの自主的な分別能力の
養生などは疎かなまま。そのせいで大メディアの洗脳支配にドップリと浸からされたり、
逆にその反動でトランプ当選みたいな悪党開き直りの暴挙に及んだりしてしまう。
日本もまた近代以降は、そんな欧米のやり口ばかりを猿真似して来たために、
むしろ封建時代以上に民意が通らなかったり、権力者にとってこそ都合がいいように
洗脳支配で統制された民意だけは通したように見せてやるような暴政がまかり通っている。
それが、精神面から自主的な分別能力を養って行く求道性を放棄した世のすべて。
まるで日本古来のように言われがちであるけれども、それも舶来かぶれの所産なのである。

結局は誰かがトップダウンに導いてやらねばならない」
というのが、民主化以降もずっと続いてきた欧米原産の価値観で、
「星の王子さま」や「ライ麦畑でつかまえて」のような、
20世紀半ばに若者や子供向けに書かれた西洋文学にすら、そういう旨の記述がある。
(政治とは無縁なメルヘンや青春劇にすら、そういう思想を仕込むほど遍在的ということ)
今の日本を含む自由主義諸国の大メディアが、まるでそれが義務であるかのように、
プロパガンダ込みの報道を繰り返していたりするのもそのためで、それは実際、
そこに属する者たちの独自な民衆への見下しと共なる場合もあろうが、それ以前に、
「民衆というものは衆愚でしかあり得ないのだ」という決め込みが遍在しているのである。

最上級の民度の高さなども未だ保ちながら、そのペースに呑まれてしまっているのは、
明治以降に、幕府時代なら両成敗にされていたような重税への抗議活動などを民衆が試みようとも、
新政府側が一方的に弾圧処刑して、政府側は一切お咎めなしといった事態が頻発したからで、
(牧野富太郎なども地元で、そういった弾圧事件での斬首刑を目撃していたという)
分別能力が損なわれたからではなく、自主性が認められるのを諦めたからそうなったのである。
そこから先、自由民権だの国民主権だのと、制度上のマッチポンプがあてがわれようとも、
「基本的にお上は庶民の言うことなんか聞いてくれない」というのが大前提の認識となり、
人々が最大限に分別能力を発揮して政治に参画したりすることも、終ぞないままでいる。
支配者側もあくまで洋学ペースである以上は、民衆=衆愚という基本認識までは揺るがさず、
民意はとりあえず劣後対象としておくのが暗黙の了解となっている。始めのところに、
民意を退ける大前提があった以上、マッチのポンプが十分足り得ることもなかったのである。

誰しもが個人的な意見を垂れ流したりしている場だから、
以上のような俺の論及を信じるも信じないもまた自由であり、勝手なわけだが。
こういう論説が真実に即していた場合、
人々が禅や密教並みの本格修行による求道まで試みずとも、
念仏並みの心の求道を嗜むだけでも、フランス革命以降に欧米諸国が
絶対無謬の理想扱いで推進し、外界などにも押し付け続けてきた、
所謂「民主化」などよりも良好な世相の招来までもが見込まれるのである。
机上の空論の空論なままな実践を上回る、最低限以上に実のある救世。
ただひたすら社会制度の、下手糞による精密機械の修理のような弄イジクりばかりを
繰り返してきた洋風の民主化とは違い、念仏などはもっぱら個人の情操の修養
ばかりに特化し、他人はおろか、親族のために唱える必要すらないとしたものだが。
儒家の三綱五常が、まず個人の徳目である仁義礼智信五常の修養があって初めて、
君臣父子夫婦三綱の関係性もまた十分に良好化させていけるが如く、
個人による自分のための求道があって初めて、その集合体たる世の中もまた上質たる。
ゆえに、心の求道だけでも万人が心がけておくことにも、大いなる有意義さがある
といえるし、衆生救済を重んずる大乗にとっては肝心要の取り組みともなるのである。
「念仏=心の求道」的な話は、もうここまでにしとこうと思うが。
あまりにもその部分が、おまえらを含む誰しもに見くびられて来た盲点だった
のにも違いなくて、これからもまだまだ啓発を続けて行く必要はあるだろうな。
念仏を見くびってる連中の意見がどれもこれも、あまりにも事実無根の誤解
まみれすぎて、話し合いで理解し合えるような可能性もほとんど見込まれない。
信仰形態の平易さとは裏腹に、その深奥にとんでもない哲学性を秘めている
二面性にまず気づくのでもなければ、それも致し方ないことだとも思う。
多分、今のここでの俺の話で、新たにそれに気づけたような人間もいないだろう。
それはまだ仕方がないとして、どう足掻いたってそこへの納得を揺るがせることもなく、
逆に雄弁で押し切られるしかないぐらいの相手がいるってことぐらいは覚えとけ。
あまりにもその部分が、おまえらを含む誰しもに見くびられて来た盲点だった
のにも違いなくて、これからもまだまだ啓発を続けて行く必要はあるだろうな。
念仏を見くびってる連中の意見がどれもこれも、あまりにも事実無根の誤解
まみれすぎて、話し合いで理解し合えるような可能性もほとんど見込まれない。
信仰形態の平易さとは裏腹に、その深奥にとんでもない哲学性を秘めている
二面性にまず気づくのでもなければ、それも致し方ないことだとも思う。
多分、今のここでの俺の話で、新たにそれに気づけたような人間もいないだろう。
それはまだ仕方がないとして、どう足掻いたってそこへの納得を揺るがせることもなく、
逆に雄弁で押し切られるしかないぐらいの相手がいるってことぐらいは覚えとけ。

https://forbesjapan.com/articles/detail/7885...
コミュニケーションに飢えてるのなら、隣人でも家族でもヒトを相手にすればいいのに、
8割がたがAIのほうにより好意を抱いているのは、世間一般の生身の人間よりも
AIのほうが理性的で、知識もあって、付き合いが有意義なように思われるからだ。
AIもまたネット情報の誤読などをやらかすし、それを真に受けた人間がさらなる馬鹿を
やらかすようなこともあるのがここでも知れてるものだが、AIよりも愚かな人間が、
AI頼みとなるような頻度が増えれば増えるほど、そういう事態も増えて行くだろう。
人間たるもの、情報処理の速度や知識量ではAIに負けても、上質な知識こそを洗練して蓄積、
体得して行く知恵にかけてはAI以上たろうとすべきだし、それでこそAI全盛の時代にも、
いまだこの世に必要とされる可能性を帯びた人間たるものである。
そのためにはやはり、何かにかけて求道的であるべきという以上のことはない。
AIは今ある範囲のものを処理することが得意な一方、求道は今まだないものを目指していく行為。
その本質の面から、求道以外や求道以上ではあり得ないような相反性を帯びているのである。
[YouTubeで再生]
このゲームシリーズは、トランプが銃犯罪の温床扱いしているゲームのうちでも最たるものだが、
執拗なグラフィックの向上のせいで、最新版はもはや実写を上回るような映像クオリティ化。
ハリウッドの衰退も、もはや実写が不要なのが最たる理由なのだとも察せられる。
(実写に近づけることを始めから放棄しているアニメ作品などは極めて盛況なことだし)
銃犯罪や薬物乱用に手を染めるようなならず者の理想郷はもはや、生身の人間が必要もない所にあり、
それはなんらの求道性もない頽廃開き直りの徒全員にとっての将来にも該当するもの。
人間たる生き物の求道性を重んずる立場からすれば、自らがオナメン顔貌化するほど
あらゆる求道性を退けて頽廃の限りを尽くそうとするような不埒者たちを、
袋小路に追い込んで行ってくれている現代の世相を喜ばしくすら思うものだけれども。
さりとて、そういった時代の転換に付いていけないあまりに、頽廃好みな連中が
自滅や暴発に至ってしまったりすることまでをも、面白がっていられることはない。
そういう連中こそが、自分の家への強盗目的の侵入にだって及びかねないのだし、
最低限、念仏による心の求道ぐらいでもいいから、誰しもにその選択肢を用意しておくのが、
人間側にとっての治安維持、防衛手段としても検討していかねばならないものとなっているのである。

執拗なグラフィックの向上のせいで、最新版はもはや実写を上回るような映像クオリティ化。
ハリウッドの衰退も、もはや実写が不要なのが最たる理由なのだとも察せられる。
(実写に近づけることを始めから放棄しているアニメ作品などは極めて盛況なことだし)
銃犯罪や薬物乱用に手を染めるようなならず者の理想郷はもはや、生身の人間が必要もない所にあり、
それはなんらの求道性もない頽廃開き直りの徒全員にとっての将来にも該当するもの。
人間たる生き物の求道性を重んずる立場からすれば、自らがオナメン顔貌化するほど
あらゆる求道性を退けて頽廃の限りを尽くそうとするような不埒者たちを、
袋小路に追い込んで行ってくれている現代の世相を喜ばしくすら思うものだけれども。
さりとて、そういった時代の転換に付いていけないあまりに、頽廃好みな連中が
自滅や暴発に至ってしまったりすることまでをも、面白がっていられることはない。
そういう連中こそが、自分の家への強盗目的の侵入にだって及びかねないのだし、
最低限、念仏による心の求道ぐらいでもいいから、誰しもにその選択肢を用意しておくのが、
人間側にとっての治安維持、防衛手段としても検討していかねばならないものとなっているのである。

その最原初の頃から、求道性を放棄し去るところで始まっているものであるために、
本格的に求道を志す者たるや、必ずやそこへの屈従からの脱却が急務ともなる。
ハタヨガなども、本来はインドで考案された本格の求道手段の一つなのではあるが、
西洋で広く受容され、求道などとは無縁な西洋人のペースに迎合させられた結果、
もはや単なるエクササイズの域に堕し、むしろ求道的なストイックさを否定しての
リラックス志向などに走っているような流派ばかりとなっていたりする。
そんな自称ヨガなどをどんなにやってみたところで、念仏一つほどの求道にもならず、
求道手段だったものを不正に濫用した咎が祟っての、諸々の疾患にすら苛まれてしまう。
今の世界に生きる人々が、精神面から西洋的頽廃を十分に拒絶してかかるのは、
きわめて困難なことで、それは別に難行であるからではない。念仏一つぶんほどの
心の求道すら許さないような志向性を、西洋精神のほうが強固に帯びているからである。
麻薬などしたことがない人間にとっては、麻薬に手を出さないことなどそう難しい
ことではないように思われるが、すでにヤク中と化してしまっている人間には、
それが断崖絶壁で生活を続ける並みに困難なことのように思われたりするのと同じように、
現代人が西洋的頽廃を脱して、多少なりとも本式の求道を志すことには、大いなる障壁が立ちはだかるのである。

「今後、全生涯にわたって、諦める必要もないことを諦めるのは一切合切、取り止める」
という誓約に沿った心持ちであり続けたり、といったこと。
Es ist gut. Let it be. と、何かにかけて諦めをつけてかかるのが西洋精神であるからして、
そこからの脱却と共にそんな心得を抱いたりするのは、もうそれだけで
断崖絶壁を登り続けるぐらいの苦痛を感じさせられることになるわけだが。
それはあくまで、西洋的頽廃と袂を分かつまでの苦痛に過ぎず、
完全にその心得に慣れきってからは、むしろ以前以上の心の安楽にも与れるもの。
なぜかというに、人間には生老病死、四苦八苦その他、生きて行くうえで遭遇することを
本当に諦めざるを得ないような事象がいくらでもあるというのに、さらにそこに
独自の無駄な諦めを重ねたりすることのほうが、総員でのキリスト教への入信によって
ケンチャナヨが本分と化した韓国人が、鬱病だらけになったような障りを招くものだから。
諦めるべきことは諦め、その必要がないことは諦めない分別が具わることにより、
何かにかけて諦めを付けたがっていた頃以上の、精神的な健全さによる安らぎを得るのである。

近代日本での流布に際して、日本古来の密教はおろか、禅仏教などよりも大幅な簡略化を凝らし、
廃仏毀釈で求道性なんか放棄し始めた以降の日本人にも受け入れられるように配慮した結果、
単なるヤケクソだなどと勘違いする者をも多く派生させ、以て戦前の特効玉砕のような、
軍部の無鉄砲さを承認するために悪用されたキライまでもがあるのである。
軍事訓練やスポーツの練習にも発奮を帯びた努力は付き物で、それが求道的な域に達することすらあるが、
全くそれが絶対条件ではなく、本当は戦いに勝てさえすればそれでいいといった側面もまたあるために、
求道手段として全幅の信頼を置くのには足りず、戦前の日本軍のような、敗戦が濃厚となってからの
ヤケクソのように、発奮は最大級でも全く求道とは無縁、なんてことにもなり得る。
近頃はだいぶ警戒自粛の対象となって来た、高校野球での選手を傷めつけて伸び悩ませる
ほどの酷使なども、「今以上を目指し続ける」という求道の条件をもはや逸しているために、
大変な過酷さを耐え忍んでいく風でいながら、別に求道ではないといった実例になっているもの。
全く発奮を否定し去る近年の自称ハタヨガも、発奮さえあればそれでいい風でいる手合いも、
どちらも求道の条件を満たすものではなく、いずれも西洋的頽廃のせいでそんな体たらくに陥って
しまっている点でも共通する。求道が求道たることは、現代人にとって非常に限られた領域なのである。
「諦める」という選択は、どうしても諦めるしかないことのために
存在するものであり、それ以外のことまで諦めたりするのは、
その時点で「諦めすぎ」に該当するものだと戒めて、避けるべきである。
中村天風師が「絶対積極」という表現で奨励した精神性なども、内実はこのようだったはずだが、
実際には、無鉄砲の空回りを正当化する口実などとして濫用されて来たのが、残念な点である。
戦前の日本軍のヤケクソ状態での特攻玉砕などは、鬼畜米英に兵士たち自身が屈従させられたり
しないことを最期まで諦めない手段とはなったろうが、一方で、もう敵に勝つことなんか諦めて
いればこその、自滅級の損耗を伴う暴挙であったわけで、大を諦めて小を諦めぬ愚行だったといえ、
やはり上に書いたような、純正な求道性に即した絶対積極などでは決してあり得なかったのだといえる。
存在するものであり、それ以外のことまで諦めたりするのは、
その時点で「諦めすぎ」に該当するものだと戒めて、避けるべきである。
中村天風師が「絶対積極」という表現で奨励した精神性なども、内実はこのようだったはずだが、
実際には、無鉄砲の空回りを正当化する口実などとして濫用されて来たのが、残念な点である。
戦前の日本軍のヤケクソ状態での特攻玉砕などは、鬼畜米英に兵士たち自身が屈従させられたり
しないことを最期まで諦めない手段とはなったろうが、一方で、もう敵に勝つことなんか諦めて
いればこその、自滅級の損耗を伴う暴挙であったわけで、大を諦めて小を諦めぬ愚行だったといえ、
やはり上に書いたような、純正な求道性に即した絶対積極などでは決してあり得なかったのだといえる。

高校野球で自らを傷めつけることで将来を棒に振ったりする真似もまた、
やはり大を諦めて小を諦めぬという点で、旧日本軍などと同様な愚かさであるといえ、
そういう高校野球を持て囃しているような連中が今の日本にも相当数いる程度には、
体育会系的な発奮努力を称えながらも、それが求道的であることまでは好まぬ輩がいるということ。
そういう連中こそは、文化系を決め込んで発奮全般を忌み避けたりするような者たち以上に、
真の求道性をマスキングして世の中から覆い隠す邪魔臭さを帯びているのが厄介な点であり、
そういう連中が好き好む積極性と、真の求道のための絶対積極は似て非なるものであることを、
求道を志す者は皆よくわきまえて、きれいごと気取りの邪道に逸れぬように気を付けねばならない。

小人の道は大を諦めて小を諦めぬ代物であるがゆえに、
君子の道は小を諦めても大を諦めぬ代物であるがゆえに、さようでもある。
大器晩成で、人が一定以上の大成に与るためには、小人たちが挙って群がり貪るような、
若いうちの楽しみなどを、精進のために諦めねばならなかったりもしようが、
それでこそ、すでに同年代の小人が老い衰えて足腰も立たなくなってしまったような頃に、
それ並み以上の楽しみを、達者としての大成と共に謳歌できたりもするであろう。
四苦八苦のような、仏法が特に概括化して示している、人が人生の上で諦めるしかないような
普遍的障壁のうちでは、若いうちの求不得苦などに該当しようが、それが実際的にはさように、
大を諦めぬためにやむなく諦める小、などとして自らに降りかかってくるようなことになる。
諦めるべきでないことを諦めないからといって、諦めることがそんなに減るわけでもなく、
むしろ些末な私情に囚われたりすることなく、機敏に諦めて行くべきことなどは増える。
そういう諦めが増えて、無益な諦めを絶やすことが、自らの人生全体を、精鍛によって
不純物を排した名刀のごとく精錬し、どんな虚栄と共によりも上質なものならしめるのである。

ロシア♱とウクライナ♱の戦争を止めることもできず、
もはや悪魔の国状態なイスラエル✡との一蓮托生まで強いられているトランプが、
インド🕉とパキスタン☾の停戦ぐらいは仲介、実現できたりしたことからも、
この画の妥当性がまた一つ実証されることになったな。
第一次第二次世界大戦もヨーロッパから始まって、
本格参入したのも欧米以外では、古来の仏教信仰を捨てて、
キリスト教を参考に国家神道を捏造した時期の日本など。
まるで中国や中東の歴史こそが戦乱続きだったように触れ回る連中もいるが、
どうあがいてもその度合いで、全世界がキリスト教圏に敵うことはない。
そんなキリスト教圏の特別な酷さを開き直るために、
「人類の歴史は戦争の歴史」なんて言い張る輩までいるが、これまた妄言もいいとこ。
地獄餓鬼畜生の三悪道に好き好んで堕する、カルトだけの特殊事情でしかないものを、
さも普遍の共通性のように言い張る蒙昧さもまた、カルトそのものであるといえよう。
マジで尻尾を巻いて逃げてんだね
ゼプは🤣
ゼプは🤣
なんか八つ当たりしてるw
やっぱりあの狂犬、ここに繋いでおいてくれよ地蔵(ーー
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スレッドタイトル:「求道か、さもなくば頽廃か」という時代2