
「戦いに際しては、自らがかすり傷の一つも負うことなく、
相手だけにダメージを食らわせることを理想かつ基本とする」
というのは、槍でも鉄砲でも何でも来いな本物の殺し合いの戦闘と
共にであれば嫌でもわきまえざるを得ない条件だし、むしろさような、
文弱からはサイコパスかと思われかねないほどの峻厳さと共にこそ、
「こいつと戦えばろくな目に遭わない」という敵対者側の認識も確立されて、
以て「戦わずして人の兵を屈するは善の善なる者なり」(孫子・謀攻篇)
に至る抑止状態までもが切り拓けるものである。
攻撃を真っ向から受け止めた所で、別に死傷するわけでもないような
非武闘の範疇では、さようなわきまえがあっという間に疎かになってしまい、
近年のネット上でのレスバなどに代表される、不毛で緩慢とした争いが
時間の無駄状態で繰り広げられ続けたりするのが茶飯事と化してしまう。
なんなら、殴る蹴るの喧嘩経験ぐらいはあるのであっても、
それが殺し合いほど致命的ではなかったために、争いを痛み分けの範疇に
集約させてしまいたがる者までもがいる。なればこそ信玄公などは、
自国でど付き合いの喧嘩に及んだ異国の侍二人を「武士の風上にもおけない臆病者」
と糾弾し、切腹すら許さない逆さ吊りの上での斬首刑に処したともいう。
一方的勝利こそを最善とする武のわきまえは、それぐらいの峻厳さと共に
でもなければ、あっという間に疎かにされてしまいがちなものなのである。
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