
南宋の朱熹は、一時期は自らも禅門に傾倒した上で、
仏門の大仰さを「巨石を抱いて川に飛び込むが如し」と批判したが、
その朱熹が興した新儒学としての朱子学に深く傾倒し、
江戸幕府の統治原理にも据えた家康公のほうはといえば、
「人の一生は重荷を負いて遠き道を行くが如し」という。
ここにある温度差もまた、儒学が信教の領分を侵すことまで
目論んでいたか、そこだけは拒んでおいたかに由来するものである。
宋儒は坐禅の真似事としての静坐なども奨励していたが、
これは別にちゃんと脚を組んで床に座るわけでもなく、椅子に座った
ままでもいいから目を瞑り、頭に「中」という文字を思い浮かべながら
瞑想に耽るとかいった代物で、本式の坐禅と比べれば劣化版もいいとこで、
こういった文化性が今に至るまでの中国人の劣化コピー好みや、所かまわず
休憩として座りたがるような不躾さの最源流になって来た面もまたあろう。
家康公は、禅門にも傾倒していなかったわけではないが、自らは仏門に
かけては他力本願を本位とし、浄土宗を徳川の菩提寺とし、南無阿弥陀仏を
延々と書き連ねる日課念仏に取り組んでいたという。俗人としての立場からは
そういった易行の部類でもいいから、仏の領分は仏を頼む分別があった。
このバランス感覚こそは「鬼神を敬してこれを遠ざく(雍也第六・二二)」
のような儒学の説話にもより合致していたのに違いなく、日本人のほうが
宋儒以上に厳格に学問としての儒学に即して来た実例ともなっているのである。
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